ルーシーママのスペイン便り

ルーシーは2009年にマドリッドに近い村で生まれたトイプードル、ママはえらい昔、日本に生まれ、長い間スペインに住んでるおばはんです。

メモ(1) 2008年12月、歴史記憶法に思うこと

(2008年12月に書いた記事)

2008年12月、歴史記憶法に思うこと

2008年秋、日本に里帰りした際、「私は貝になりたい」という映画を見ました。ごく普通の市民とその家族が戦争というものに翻弄され踏みにじられていく過程が、美しい日本の四季の風景とともに優しさと悲しさと切なさに満ちて描かれていました。普通の人間にとって一番大切なもの、それは家族。家族を恋しいと思い大切に思う気持ち、それさえも剥ぎ取って「貝になってしまいたい」と思わせるほどの戦争という過ちを繰り返す人間の犯す罪はあまりに重い。こんなことを考えながら成田からスペインへ向かう機中、スペインの友人から聞いたある家族のことを思い出しました。

そして、日本からスペインに戻って数日後の11月28日、歴史記憶法に則ってフランコ独裁時代の犠牲者の身元確認のための捜査を指揮していた全国管区裁判所のガルソン判事に対して同裁判所の刑事法廷評議会が「ガルソン判事にこの捜査を行う権限なし」とう判定を下したというニュースを知り、なんとも言えない気持ちになりました。


〜ある家族の記憶〜
スペインはエクストゥレマドゥーラ地方のバダホスに近い人口2万人ほどの町にアナは住んでいた。1931年にスペイン第2共和制が樹立されると、この町も複数の政党から町会議員が選ばれた。マヌエルは社会党に属する町議だった。3人の子供を残して妻に先立たれ、同じ町に住む働き者のアナを後妻にもらい、わすかな土地を耕して二人で懸命に働きながら5人の子供たちを育て、貧しいながらも家族仲良く暮らしていた。夫はたまたま社会党員だったが、小学校しか出ていないアナは思想などというものに興味はなかった。ただ、正直に働く者は皆同じという彼女なりの正義感を持っていて、どちらかというと左寄りの町のパン屋が毎日教会に通うカトリック信徒で保守的な主婦にパンを売らないという嫌がらせしているのを見ると、「その人の思想が右にあろうが左にあろうがお腹は空くんだから、その口に入るパンが必要なのよ」とたしなめたりする女性だった。
1936年にスペイン内戦が勃発、この町もは反乱軍と共和国軍の激しい戦いが繰り広げられる場となった。そして反乱軍に町が制圧されると、マヌエルを含む120人以上の町議が逮捕されバダホスにある強制収容所に送られた。この収容所では過酷な強制労働と劣悪な環境の中、半分以上が死んでいったと言われる。一方残されたアナは、町がフランコ軍に制圧され内戦が続く中、身を粉にして働き5人の子供たちを食べさせることに必死だった。
1939年、内戦が終わりバダホスの収容所にいた囚人達は釈放された。過酷な収容所生活をなんとか生き延びることができたマヌエルは一刻も早く家族に会うために故郷の町へと向かった。フランコ独裁政権下となった今、この町の統治を任されていた治安警察隊の隊長は自分の一存で(この時代には指揮者の一存が全てだった)これら元収容所囚人をその家族もろとも全員銃殺する命令を下していた。保守派の家庭の主婦がこのうわさを聞きつけ、アナに知らせに駆けつけた。とにかく子供たちを連れてどこかに隠れるようにと。アナは大急ぎで4人の子供を連れて治安警察隊に見つからないように身を潜めた。だが17歳になる一番上の娘はバダホスから戻る父を迎えに出かけてしまっていた。そして、その日以降、マヌエルと長女は「消息不明」となった。フランコ独裁制の下、誰もこの「消息不明者たち」を探すことも、その消息について話すこともできなかった。そうすることは自分と家族の身を危険にさらすことだったから。アナは貝のように口を閉ざして沈黙を守り、ひたすら働き続けた。
1936年から39年までスペインという国が二つに分かれて戦った内戦が終わったが、共和国側で戦った人々(自分の意志に関係なく戦わされた人々も含めて)にとって過酷な弾圧の日々が始まった。多くの人々が集団銃殺されたりマヌエルのように「行方不明」となった。そして残された家族にとって、隣人の告発に怯えながら口を閉ざし身を潜めて生きる長い長い歳月が待っていた。
行方不明の元社会党員町議の妻にとってフランコ独裁下の世間は決して優しくはなかったはずだが、アナは一人で4人の子供を育て、成長した子供たちはそれぞれに結婚し家庭を持った。末娘の家族と一緒に暮らしていたアナはフランコの死より2年早い1973年にこの世を去った。
4人の子供たちも既に亡くなってしまった今、アナの夫マヌエルとその長女があの日行方を絶ってからどうなったのかを知る術はない。この話を聞いたのは、アナの孫にあたる私の友人からだが、失われた家族の記憶をたどるには、資料も協力してくれる組織もそしてなによりもそれを推し進めようとする社会の意志が欠如しているという。アナもその子供たちも、そしてその孫たちも沈黙を守って生きて来た。スペインという社会の半分がじっと口を閉ざして生きてきた。そして今ようやくこの半分が沈黙を破って動き始めようとすると、あとの半分が「そんなの知らない」と口を閉ざす。失われた家族の記憶を取り戻すのは、とても難しいようだ。
内戦中およびフランコ独裁政権下で集団殺戮され、あるいは「消息不明」のまま共同墓地(実際は巨大な穴に投げ込まれたことをこう呼んでいる)に埋められたとされる人々の数は10万人を超えると言う。2007年12月に歴史記憶法が成立したことによって、失われた家族の記憶を探すことが合法化され、社会的恐怖とタブーから開放されたとは言え、数十年間口に出すことさえできなかった夫や父や祖父の亡き骸をスペイン各地に存在する共同墓地から探し出して家族の元に連れ戻して弔うには、まだまだ多くの困難が存在しているようだ。



〜 歴史記憶法に関する簡単な説明とその背景および同法成立までと成立後の主な出来事 〜
史記憶法とは何か、なぜ必要だったのか。

1931年、プリモ・デ・リベラ独裁政権が崩壊し、国王アルフォンソ13世がイタリアへ亡命。統一地方選挙で共和制支持派が勝利し、主権在民を唱える民主的な共和国憲法が制定され「第2次共和制」が発足。
共和制下、急進的な労働組合が実施したデモや左翼と右翼の間で起こるテロ活動などが頻発して治安の悪化や社会不安をもたらす一方、政教分離政策に対してカトリック教会側の不満も大きくなっていった。こうした大地主やカトリック教会などの保守勢力と、ファランヘ党などを中心とするファシズム勢力が結びついて、1936年7月に軍事蜂起へと発展。ドイツやイタリアからの軍事援助を受けてフランコ将軍を中心とする反乱軍は36年11月にはスペイン全土のほぼ2/3を占領するに至る。共和国政府軍は人民軍を組織して戦ったが、反乱軍の前にその力は及ばず、外国からかけつけた義勇軍の応援にも拘わらずスペイン各地の主要都市は次々と反乱軍の手に落ちて行き、39年3月最後の砦であったマドリッドも制圧されて内戦が終結。この後、1975年にフランコが亡くなるまでの独裁政権下では、共和制を求めた人々や労働組合活動を行った人々が政治的弾圧の標的となり、多くの犠牲者を出した。

1997年から2期続いた民衆党(保守)アスナル政権後、2004年に発足した社会党サパテロ政権が内戦と軍政時の被害を調査する委員会を発足され、その時代に行われた弾圧に関する調査および研究が進められていたが、1978年憲法が制定されてスペインが民主化の道をたどってからほぼ30年となる2007年12月に「歴史記憶法」が成立した。同法はスペイン内戦(1936年から39年)とその後の軍事独裁政権下(1975年のフランコ死去まで続く)で政治的弾圧によって処刑されたり行方不明となった人々の名誉を回復し、その遺族を補償するために法的根拠を与えるもので、共和制を求めて戦った人々に対して軍政下で行われた裁判は「非合法」としている。具体的に次の要項を含んでいる。
• 遺族に対する年金
• 犠牲者の身元確認
• 内戦と政治弾圧に関する資料の保存
• 軍事蜂起したフランコ将軍や蜂起をたたえる記念碑やシンボルの撤去。


史記憶法成立後の主な出来事
★2007年12月に歴史記憶法が成立し発効したが、行政主導の具体策は打ち出されていない。
それはなぜか? PP民衆党とスペインカトリック教会はフランコ独裁体制の悪を認めていない、つまりスペイン社会の半分はまだ、この法律を認めていないということだ。現在、犠牲者の身元確認のための発掘作業(内戦時およびその後のフランコ独裁体制化での行方不明者、殺害されて共同墓地に埋められた人たちの)は13の民間団体、歴史記憶回復協会連盟が行っているのが実情である、これらの団体は歴史研究家や大学などの協力を得て活動しているが、自治体行政が主導している例は非常に少ない。このように、政治の分野から主導的動きが見られない状況の中、全国管区裁判所のガルソン判事が司法の分野から最初の一歩を踏み出した。

★2008年10月14日、これら歴史記憶回復連盟が個々に全国管区裁判所に対して、共同墓地発掘の申請を行っていたのを、ガルソン判事が全国犠牲者共通リストをデジタル書類としての作成を命じると同時に、各関連機関に犠牲者確認に必要なすべての書類提出と発掘協力を要請するよう命じた。

★11月6日、ガルソン判事が担当していた捜査が完了し(同判事の入院時にその代わりに捜査を指揮していた)サンティアゴ・ペドラス判事が、「すべての共同墓地の発掘を命令する」旨を発表した。

★11月7日、全国管区裁判所の検察長官ハビエル・サラゴザは、「ガルソン判事にはこのような捜査を指揮する権限はない」という旨の控訴を提出し、それに対し同裁判所の刑事訴訟法廷は緊急総評議会を召集し、「緊急を要すると判断されない共同墓地発掘に関してはそれを延期する」という決定を下した。また来週以降には同評議会が「ガルソン判事にこの捜査を指揮する権限があるかどうか」に関する裁定を下すと予想される。もし権限がないという裁定が下ると、今までガルソン判事が進めてきた調査が無に帰すことになる。
11月6日のパドラス判事の発表からたった1日で行動を起こした検察側のすばやい控訴も、異例とも言える刑事訴訟法廷の迅速な総評議会召集も、ガルソン判事の捜査がもたらした具体的な命令が実際に動き始めるのをよしとしない人々が社会の半分以上いるという現実を思い知らせるに十分だった。

★11月18日ガルソン判事は自ら、それまで行ってきた内戦時およびフランコ独裁政権下での犠牲者に関する捜査を中止し、共同墓地の発掘は各々が属する地域の地方裁判所に委譲されるべきとする判断を下した。これは全国管区裁判所の刑事法廷総評議会にて「ガルソン判事にこの捜査を指揮する権限が無い」という決定が下る前に、発掘調査を各共同墓地が所属する地方裁判所で継続して行われるための筋道を作るためとも見られるが、政治的圧力に屈したと見る筋もある。犠牲者の家族などからなる歴史記憶回復連盟からは、ガルソン判事の捜査、全国管区裁判所の検察側の主張、刑事法廷総評議会の決定など一連の出来事を前にして、あくまでも「司法の独立を尊重し、政治が介入すべきでない」という態度を維持している政府に対して、歴史記憶法を作っただけで、その法律に基づいた一貫性のある具体的政策を何も実施していないという批判の声も出ている。

★11月28日全国管区裁判所刑事法廷総評議会は賛成14票対反対3票という圧倒的多数で「ガルソン判事にこの捜査を指揮する権限が無い」という決定を下した。

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社会の半分以上はフランコ独裁制時代の「悪」の部分を認めていない、また「悪」の部分が存在したことをさえ認めていない、なかったことにして、忘れるべきことという考え方なのでしょう。
あとの半分は、75年フランコの死後も30年以上、恐怖と社会的タブーに対する抑圧なしに語ることができなかった訳ですが、2007年12月にようやく法的根拠が制定され合法的にこれをできるようになりました。合法化されたとはいえ、社会の半分が犠牲者の記憶と名誉回復に反対している以上、状況が大きく変わるには時間がかかります。そんな中、歴史学者や犠牲者の家族が組織する民間団体の活動に依存していた作業に、司法の分野から一歩を踏み出したガルソン判事の行動の意味は非常に大きかったはず。だからこそ、歴史的記憶を回復させたくない大きな意思が動き、全国的な犠牲者の身元確認作業開始の直前でその総括指揮を執っていた判事がその指揮権を剥奪された訳です。
スペイン国内よりも国外において歴史記憶回復運動は認知されているので、ガルソン判事の権限が認められなくても、動き出した運動は国際司法の分野から新たな展開を見るかも知れません。ガルソン判事が送り出したこの捜査を各地方裁判所が続けられるかどうか、そこには司法の独立性以外のあまりにも多くの要素が介在していて、大きな意思によって消滅させられてしまう可能性もあるでしょう。友人の祖父マヌエルやその長女を含む多くの「消息不明者」が家族と同じ場所で安らかに永眠できる日は来るのでしょうか。