ルーシーママのスペイン便り

ルーシーは2009年にマドリッドに近い村で生まれたトイプードル、ママはえらい昔、日本に生まれ、長い間スペインに住んでるおばはんです。

マドリッド旧市街散策 (ハプスブルグ王家のマドリッド)

突然ですが、今日はマドリッド市の観光局が提供しているガイド付きの散策ツアーに参加してきました。
スペイン語で説明をしてくれるガイドさんは、参加してる人は基本的にスペインの歴史を知っているという前提でかなり掘り下げた説明をしてくれるのですが、なかなか全部消化するのは難しいので、おおまかなところを解ればいいっかなぁ、という軽いノリで参加して参りました。
ツアー出発地点はマヨール広場にある観光案所前。今回参加したのは12h00スタートの「Madrid Impresindible I(絶対見逃せないマドリッド-その1-)」、徒歩で2時間のコース。参加者は20人くらい、ガイドさんはホセ・イグナシオさん。

マドリッドの起源、Magerit
マドリッドの南70キロにあるトレドは、596年に西ゴート王国の首都、その後イスラム支配の時代にはタイファ諸国のひとつトレド王国の首都、レコンキスタ後のカスティーリャ王国の首都、イベリア統一後スペイン王国の首都と、中世から歴史の表舞台に登場する重要な街だったのに比べ、マドリッドは9世紀まではその存在さえも知られない村でした。711年にアフリカ北部からイベリア半島に侵攻し、瞬く間に北上してきたイスラム教徒が、カスティーリャの軍隊との戦いのためにこの村に要塞を築き、その周りに作物を栽培し町を形成。アラビア語の要塞を意味する言葉、Mageritがマドリッドの語源と言われています。そのMageritは現在のオリエンテ広場にあり、城砦を中心に町を囲んだ城壁は,
Cuesta de la Vega—Calle Mayor—Puerta de Guadalahara(サン・ミゲル市場のあたり)—Cava San Miguel---Cava Bajaのあたりに位置しており、現在マヨール広場がある場所はイスラムの時代には城壁の外にある原っぱでした。
1083年にカスティーリャ・レオン国王アルフォンソ6世によってマドリッドイスラムから奪回された後、首都トレドに行き来する国王や王族たちがアラブ人の造ったアルカサルに宿泊することが多く、次第にその重要性を増して行きます。1561年にフェリペ2世マドリッドに遷都し、王族やら貴族やらが大挙して移住し始めると、旧市街地は全くのキャパ不足となり、大規模な都市整備が大急ぎで始まることになります。城壁の東側をPuerta del SolやPuerta Cerradaまで拡張し、マヨール広場を造り、新たに造成された市街地には次々と貴族などの邸宅や行政機関やカトリック教会の施設が建設され、16世紀、ハプスブルグ朝マドリッドが誕生したのだそうです。

Cava San Miguel通り:イスラム時代の城壁があった一帯

サン・ミゲル市場

イスラム時代の城壁の主要な門、グアダラハラ門があったあたりにあるこの市場は1915年に造られたモダニズムアールヌーボー)様式の建物。現在、内部は改装され、様々な食材を売る店に交じって、新鮮なタパスやワインなどを提供するバルもたくさん出店しているので、食べたいものを様々な店で物色し、内部に設けられた共通のイートインスペースのテーブルや椅子に座って食べることができます。


マヨール広場(Plaza Mayor)

マヨール広場

正面がReal Panaderia、かつて市庁舎が入っていた場所。この部分だけ壁にギリシャやローマの神話の登場人物が描かれ、一階が観光案内所。真ん中に建っているのは、マドリッドで生まれ育った初めての王様、フェリペ3世の騎馬像。
そのフェリペ3世の父、フェリペ2世が1561年に首都をトレドからマドリッドに移し、ここに町の中心となる広場の建設を決め、当時エスコリアル修道院を始め、ハプスブルグ家の重要な施設の建築を任せられていた建築家Juan de Herreraの弟子、Juan Gomez de Moraがこの広場の建築を担当。ルネッサンス様式とバロック様式が融合した中に、Herrera独特のスタイルが見られる、ハプスブルグ朝マドリッド特有の建築様式だったそうです。このスタイルはPlaza de la Villaの旧市庁舎(現在はミュージアム)や外務省の建物などで現在も見ることができます。その後、2回の火災に遭った後、現在の形となったのは20世紀になってからで、プラド美術館も担当した建築家Juan de Villanuevaの設計による、新古典様式。
ちなみに、広場を囲む建物の内、Real Panaderiaの部分以外は一般向け住居あるいはオフィスとして購入あるいは賃貸が可能とか。ガイドさんが教えてくれたそのお値段は・・・購入の場合1平米当たり9000ユーロ(約90万円)、賃貸の場合100平米のフラットで月の家賃が2400ユーロ(24万)だとか。


広場の中にはクリスマスのマーケットが設けられていますが、この時期のこの時間だと、さすがに未だ人もまばら。スペイン人の常で、ぎりぎりになってからみんなが殺到するんでしょう。



マヨール広場近辺にはカトリックの宗教関連の品を売る店がいくつかありますが、季節柄、ショーウインドーには「ベレン」が飾られています。

ベレン(Belen)
エスが厩で生まれたというベツレヘムの町をスペイン語ベレンと言います。最近ではスペインでもクリスマスツリーやサンタクロースが登場するホワイトクリスマスというイメージの方が主流となりつつありますが、それこそ80年代頃までは、スペインのクリスマスデコレーションと言えば「ベレン」だったのです。聖書のイエス誕生の場面をフィギュアで再現する「ベレン」、厩で生まれた幼子イエス、その両脇にマリアとヨセフ、周りを囲む羊飼いたち、そこにたどり着こうとしている東方三博士というメイン登場人物の他にも、当時の生活習慣や衣服など反映している様々な職業を現す人々、道具や機械、市場で売られる野菜や果物、穀物、卵などの小物、羊や馬などの動物、果ては樹木、川、水車、周りを囲む風景までも再現する巨大なベレンまで、その種類は様々。使われる素材もいろいろで、主流となっている粘土製フィギュアの他、布や紙、陶器やガラスなどを使い、様々な意匠を凝らした「ベレン」がその美しさを競うように商店や公共施設に飾られていたものですが、最近では多くがクリスマスツリーに取って代わられているようです。スペインらしさが失われていくようでちょっと寂しいですね。




ベレンに飾る様々な小物(写真だと分かりにくいですが、すごぉく小さくって精密につくられているんです。オレンジ色の値段のスティッカーと比較するといかに小さいかが解るかも)

 

こちらもベレンに飾るイエス誕生場面の登場人物のフィギュアたち(フィギュアを集めてるベレンオタクには垂涎もの)

 

こちらのフィギュアは電気仕掛けで動くもの(イエスが生まれた時代のユダヤの人々の生活や様々な職業などが垣間見られます)


サンティアゴ教会。

ナポレオン侵攻後、ホセ・ボナパルトがスペイン国王となった時、マドリッド旧市街、王宮近辺の区画整備を断行、その際、聖ヨセフ教会(San Juan)と聖ヤコブ教会(Santiago)の2つの教会が取り壊されたそうですが、19世紀末、ガリシアのSantiago de Compostelaで聖人Santiagoに関する新たな発掘があり、カトリック教会の圧力がかかったため、この同じ場所に新古典様式の聖ヤコブ教会を新たに建設。それがこの教会。


ラマレス広場

かつて聖ヨセフ教会があった場所(スペインを代表する画家ベラスケスの遺骸が安置されていたとされる教会)




アルムデナ大聖堂(Catedral de Almudena)

アルムデナ大聖堂(東側側面から見たもの)

アルムデナの聖母には様々な言い伝えがあるようですが、マドリッドの守護聖女アルムデナの起源は、この町がアラブの支配下に入った9世紀までさかのぼるとか。アラブ人入城直前に城壁の壁に隠された聖母像が、300年の後、レコンキスタマドリッドの町を取り戻したカスティーリャ国王アルフォンソ6世が入城してくると、壁の一部が崩れてこの聖母像が現れたと伝えられています。
一方、マドリッドは1561年にスペイン王国の首都となったにも拘わらず、大聖堂を持たない町でした。その大きな理由のひとつは、マドリッドには独自の司教区がなく、トレド司教区に属していたから。カトリック教会の最も重要な司教区であるトレドの司教は、なかなかマドリッド司教区の独立を認めず、1883年国王アルフォンソ13世の時代にようやく、マドリッド−アルカラ司教区が設置され、アルムデナ大聖堂の建設が始まった次第。当初は建築家であったMarques de Cubas(クーバス侯爵)の指揮の下ゴシック様式で建設が始まったものの、その後中断され、1950頃にFernando Chueca Goitiaの指揮で建設が再開。しかしながら予算が大幅にカットされたため、クリプタはビザンチンとロマネスクが融合、外部は新古典主義、内部はゴシック様式というつぎはぎで進められ、1992年についに完成。1993年には教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖別されました。また、2004年5月22日、この大聖堂で初めて行われた挙式はスペイン王太子フェリペと民間出身(バツイチのジャーナリスト)レティシア妃との結婚式でした。
ちなみに、この大聖堂が完成する前は、トレド通りにある参事会教会、聖イシドロ教会が「マドリッドの大聖堂」の役割を果たしていました。



セゴビア高架橋の上を通るバイレン通り

イスラム時代の城砦からセゴビア向かう道は、二つの丘に挟まれていました。その二つの丘を結ぶ高架橋、Viaducto de Segoviaが造られたのは1884年、その後、この高架橋の上を通る大通りバイレン通りを造るため、多くの家屋が取り壊わされ、旧市街がBarrio de MorreriaとVistillasとに分断されました。



モレリア(Barrio de Moreria)
建物は改装されているものの、ほとんどの街区や建築土台はイスラムの時代のままらしい。


 




11世紀末、レコンキスタマドリッドを奪回したアルフォンソ6世の時代の城壁跡



バルガス家邸宅(Palacio de Vargas)17世紀に造られたルネッサンス様式の大邸宅。アルフォンソ6世の下で戦い、マドリッドイスラムから回復した中世の騎士、Ivan de Vargasの一族、マドリッドで最も古い家系を持つ貴族バルガス家の屋敷。現在はColegio Concertado Santa Barbara(自治体政府の資金で運営される私立の小学校)となっています。


 


アンドレス教区教会(Iglesia de San Andres)

バルガス邸の一部が聖アンドレス教区教会となっています。バルガス家にゆかりの深い聖イシドロの亡骸はかつてこの教会に納められていましたが、後にバルガス邸のパンテオンに移され、その後再度移動されて、現在はトレド通りにある聖イシドロ教会にあります。



聖イシドロ(San Isidro)
マドリッド守護聖人となる聖イシドロは、11世紀末、レコンキスタ真っ最中のマドリッドで生まれました。イシドロは身長が183㎝もあり、当時としてはかなりの大男だったと伝えられていますが、彼は貴族Ivan de Vargasの領地で農夫として働いていました。非常に敬虔なカトリック教徒で、家から畑までの道中にある全ての教会に立ち寄って祈りを捧げていたため、仕事に遅れ他の農夫から非難されたりしたようですが、彼が教会で祈っている間、彼の代わりに天使たちが農作業を行ってくれたおかげで、仕事の効率に関しては決して他の農夫に引けを取ることはなかったとされ、これが聖イシドロの奇跡のひとつと言われています。また、やはり後にマドリッドの守護聖女となるSanta Maria de la Cabezaと結婚して設けた子供が誤って井戸に落ちた際、イシドロが一心に神に祈ると、井戸の水が満ち溢れ、落ちた息子を井戸の外に押し上げ、息子は助かったというエピソードも有名なイシドロの奇跡のひとつです。

パハ広場(Plaza de Paja) バルガス邸の前の広場、かつてはバルガス邸の庭園だった場所


左手がアングロナ王子邸(Palacio de Principe de Anglona)正面が聖ペテロ教会(Iglesia San Pedro)

アングロナ邸は17世紀、オスーナ公爵の子息ペドロのために造られた屋敷。現在では内部を近代的に改装して一般向けの住宅として貸しているらしいですが、お値段も公爵並みにセレブらしいです。


聖ペテロ教会

14世紀に建てられたムデハル建築。アルへシラス遠征にあたり、マドリッドの民に軍資金を募ったカスティーリャ国王アルフォンソ6世、見事戦いに勝って凱旋した後、マドリッド市民への感謝を表すために建立したのだとか。



サクラメント通り(Calle Sacramento)ハプスブルグ朝マドリッドのメインストリートだったこの通りにある建物は、そのほとんどが貴族、王族、司教などの邸宅や館。

突き当り左手はトレド大司教の館だった建物、右手はバルガス家の館のひとつだったのもので現在は図書館。

ここも貴族の邸宅だったところ、現在は一般住宅だそうですが、お値段は超セレブとか。

左手も右手奥もかつて貴族の邸宅だったものが現在はマドリッド市に属する施設。

サクラメント通りとコルドン通り(Calle Cordon)の角、16世紀からずっとそこにある建物。

コルドン通り



ビリャ広場(Plaza de la Villa)
かつて聖サルバドール教区教会(Iglesia de San Salvador)があった広場。レコンキスタ後、マドリッドが首都になるまで、マドリッドの市長はこの教会をその市庁舎としていたそうですが、マヨール広場ができると市庁舎は移動。この広場には行政関連機関が設置されたそうです。
広場に面してコの字型に位置する3つの建物は15世紀から17世紀にかけての3つの異なる建築様式によるもの。

15世紀、ムデハル様式、貴族の館として造られ、現在は公立の研究機関

15世紀、ルネサンス様式、当時の行政機関として造られ、現在は市役所関連施設

16世紀、Herrerismoと呼ばれるハプスブルグ朝独特のルネサンス様式。先週までここはマドリッド市議会がありましたが、今週から市議会はシベレス広場にある広大な新市庁舎内に移動したため、現在はミュージアムとなり、一般公開されているとのこと。

余談ですが、この広場の中央に立っている銅像はAlvaro de Bazan、フェリペ2世に治世下、日の沈まない帝国スペインの無敵艦隊を率いた海軍提督。1571年オスマントルコを破ったレパントの海戦でも活躍した人でした。1588年、アルマダ海戦の出撃直前に彼が過労死しなかったなら、スペイン海軍は海賊ドレーク率いるイギリス海軍に負けることはなかったかもと言われている人だそうです。



おまけ


このブログを書いている隣で寝息をたてているルーシー