ルーシーママのスペイン便り

ルーシーは2009年にマドリッドに近い村で生まれたトイプードル、ママはえらい昔、日本に生まれ、長い間スペインに住んでるおばはんです。

スペイン国王家とウルダンガリン氏

スペインの国王とその家族
日本では今、内親王が民間人と結婚しても宮家を起こす可能性が議論されていると聞きますが、スペインが日本と違うところは、王様の子供は男性でも女性でも結婚相手が誰であろうと爵位が与えられ、自分が望まない限りは皇族から民間人になることはないということ。現在の国王ホアンカルロス一世とソフィア王妃の間には3人の子供があり、一番上がエレナ王女、その次がクリスチーナ王女、そして最後に生まれたのがフェリペ王太子。エレナ王女は1995年ハイメ・デ・マリチャラールという貴族と結婚し、一男一女を設けましたが、その後2010年に離婚。結婚を機にエレナ王女とマリチャラール氏にはルーゴ公爵の爵位が国王から与えられましたが、正式な離婚成立後にマリチャラール氏の公爵位は取り消されました。次女のクリスチーナ王女は1997年にアトランタオリンピック知り合ったハンドボールのスペイン代表選手ウルダンガリン氏と結婚、二人にはパルマ公爵の爵位が授けられ、3男1女に恵まれています。フェリペ王太子は2004年に民間人のレティシアさんと結婚(レティシアさんは離婚歴のあるジャーナリストでした)、長女レオノール、次女ソフィアという2人の女の子が生まれました。
もうひとつの大きな違いは、現行のスペイン憲法では女性にも王位継承権があること。現在スペイン王位継承権1位はフェリペ王太子、第2位はその長女レオノール王女ですが、もし王太子夫妻に今後男の子が生まれると、その男子が長女のレオノール王女を超えて第2位となります。レティシア王太子妃の2回目の懐妊が解ってから次女のソフィア王女が生まれるまでの間、もし男の子だったら長女レオノール王女の継承権がその子に渡ることの是非を問う、つまり王位継承権の男女平等を確保するために憲法改正すべきかどうかを審議せねばならないと国中が大騒ぎをしたのですが、正に「喉もと過ぎれば熱さ忘れ」、生まれたのが女の子だと解った途端、憲法改正の話は雲散霧消。日本の場合は、皇位継承権第一位は皇太子浩宮様でしょうが、男子のみを継承者とする現行の憲法に従うと第二位は浩宮様の弟秋篠宮様、第三位はその長男悠仁様になるんですよね。スペインの場合は因みに、1位フェリペ王太子>2位王太子の長女レオノール王女>3位王太子の次女ソフィア王女>4位王太子の姉エレナ王女>5位王太子の姉クリスチーナ王女>6位エレナ王女の長男フェリペ・ホアン・フロイランとなります。

さて、スペインの王室ですが、かつてのスペイン内戦で、王政復古を目指してフランコと共に戦った軍人たちはフランコ独裁の時代に粛清されて姿を消し、なし崩し的に国王の存在がうやむやにされ、フランコ総統が国王に代わる存在となり、1931年アルフォンソ13世の亡命から1975年フランコ自身による王政復古までその王位は空白でした。アルフォンソ13世の息子で王位継承権1位にあったバルセロナ伯爵ホアン・デ・ボルボンはその息子ホアンカルロスに継承権を譲り、1975年ホアンカルロス1世が即位。押さえきれないほどに熟し、様々な社会層から押し寄せる民主化を望む激しいうねりと、その一方でフランコの死によってそれまで押さえつけられてきた社会層の蜂起を恐れる右翼、そんな一触即発のカオスの中で37歳で国王となったホアンカルロス1世。周りの政治家や官僚に導かれ、フランコの敷いたレールをたどると思われていた若き国王は、市民戦争で二つに分かれて戦った傷口がそのまま残るスペインを、軍部の反発を牽制しながら、再び戦争を起こすことなく、民主的総選挙を行い、民主的選挙で選ばれた国会議員によって構成された委員会によって憲法草案を作り、国民投票によって憲法を制定し、スペインを議会君主制の民主国家へと生まれ変わらせました。トランシションと呼ばれるこのプロセスには、昨日まで違法だったものを合法化し、その合法化を糾弾するものを説得し、様々な矛盾に満ちたカオスの中でハッキリとした目標をもちながらも、様々な要素と交渉し落としどころを見つけながら、薄氷を踏むように、しかし毅然として前に進んできたのでしょう。この薄氷の時代を国王と共に歩んだのがアドルフォ・スアレス元首相。彼が首相を辞任し、後任のカルボ・ソテロ氏が就任演説を行おうとしていた日(国会議員が全員、議事堂内に居た)1981年2月23日に起こったのが、F-23のクーデター。このクーデターを企てた軍人たちはホアンカルロス1世が軍部を支持あるいは容認してくれると考えたのでしょうが、国王は速やかに毅然とした態度で蜂起した軍人に投降を指示し、説得の末に彼らは投降し、けが人や犠牲者を出すことなく危機は回避されました。あれから30年、F-23を知らない人も多いでしょうが、それはきっと幸せなことなのでしょう。


パルマアリーナ事件(Caso Palma Arena)
そんな王様の最近の悩みの種は、娘婿イニャキ・ウルダンガリン氏。
1986年から2000年まで、F.C.Barcelonaのハンドボールチームでプロとして活躍、1996年アトランタ、2000年シドニーと2回のオリンピックにもスペイン代表チームとしても参加。アトランタオリンピックでクリスチーナ王女と知り合い、1997年4月に結婚。2000年に現役引退後は、王室の一員として公務を務める傍ら、スペインオリンピック委員会の委員を務め、その後ESADEにてMBA取得。2004年にはESADEで彼の師だったDiego Torres氏と共同でスポーツ・文化活動の振興を目的とする非営利団体Noos財団に参加して、バレアレス自治州やバレンシア自治州などを中心に各種スポーツイベントの組織運営に協力。2006年にはTelefonca Internationalのアドバイザとなり、Interactive Generations Forumの会長のポストに就任、2009年からはワシントン勤務となり、現在パルマ侯爵家は親子6人、ワシントンで生活しています。
バスクに生まれ、カタルーニャハンドボール選手として活躍した長身のナイスガイ、イニャキは国王にとって理想の娘婿でした、パルマアアリーナ事件が発覚するまでは。
グルテル事件(Caso Gurtel)と呼ばれる、バレンシア自治州政府やマドリッド自治州政府を始めとする多くの政治家と私企業間の癒着・贈収賄を捜査していたFiscalia Anticorrupcion(検察特捜部)の捜査から波及して発覚したのがパルマアリーナ事件(Caso Palma Arena)で、その汚職事件の渦中にあるのがクリスチーナ王女の夫でありパルマ侯爵のイニャキ・ウルダンガリン氏。元オリンピック選手、オリンピック委員会委員、そしてなによりも国王の娘婿という肩書を持つウルダンガリン氏、Noos財団を通じて私企業に対してイベントのスポンサー契約仲介、バレアレス州やバレンシア州などの地方自治体政府に対してはアドバイザやコンサルタントなどの活動をしていた。検察の捜査で地方自治体や多くの企業から仲介報酬あるいはコンサルタント料として多額のお金がNoos財団に支払われていたことが発覚、非営利組織のNoos財団に入ったお金は、財団に付随する複数の会社や団体に流れ、利益一切は存在しない。そして、いくつもの名前ばかりの企業やら財団やらを経たお金が一体どこへ行ったのやら不明なのだそうです。検察の捜査は自治州政府やそれらが主催したイベントの組織や運営を担当した外部企業、あるいは第三セクターなどにも広がり、贈賄部分が明らかになると同時に、Noosの共同運営者だったDiego Torres氏も既に容疑者として起訴されていますから、ウルダンガリン氏が起訴されるのも時間の問題とみられています。
このような状況の中、スペイン王室は国王ホアンカルロス一世の名で「ウルダンガリン氏が私的に行っている活動は王室とは全く無関係。彼の行いは王家家族の一員として模範的といえるものではない。今後王家が関わる公務には一切ウルダンガリン氏は参加しないこととする。今までは年間の王家家族全員に配分された予算を合計した王室予算合計額のみを公開していたが、今年度は王家家族個々に配分された予算の額を公表する」という内容の異例の声明を発表しました。
これは国王自らが、法治国家スペインの検察の捜査や国民に対して、王家の一員というシェルターで娘婿をかくまう気は一切ないとを表明している訳です。今日の新聞では、2006年には既に、娘婿の不透明な事業活動内容を調査すべく国王が密かに調査員を派遣しており、その調査の結果、Noos自体は非営利団体ながら、その周りに付随している多くの組織は営利を目的としていることが判明、国王は娘婿に対してこの財団から手を引くように指示、同時に名誉役員を務めていたクリスチーナ王女にも同様に速やかに辞任するよう指示したとのこと。しかし、ウルダンガリン氏は自身の弁護士などの助言を聞きながら別の財団を立ち上げて活動を続ける可能性を模索する一方、国王は王室の諮問弁護士らの
助言を受けてウルダンガリン氏の私的活動はスペイン国外で行うべきと主張、ようやく両者の折り合いがついてウルダンガリン氏がTelefonica Internationalの顧問としてワシントンに赴任、クリスチーナ王女一家が同地に引っ越したのは2009年のことでした。